「え……? リカルド様にですか?」いきなり、この屋敷の執事であるリカルドの名前が見知らぬ女性の口から出てきたのでフットマンは困惑した。一方のイレーネも自分の言葉足らずなことは自覚していた。ただ、彼女がこのような言い方をしたのには理由があったのだ。それは募集要項の中に、リカルド・エイデンと言う人物以外に求人の件で来訪した旨を説明しないようにと記されていたからだ。口が固く、秘密は必ず保持するイレーネらしい行動だった。「平日の十時から十七時までの間でしたら、お会い出来るということで伺ったのですがリカルド・エイデン様はおいででしょうか?」イレーネは丁寧にもう一度尋ねた。「……」年若い令嬢を不躾に見るのは失礼かと思ったが、フットマンはイレーネをじっくり観察した。(この女性……あまり良い身なりはしていないけれど、佇まいや話し方には品がある。それに時間指定までしてきているし、何よりリカルド様のフルネームを知っている……そう言えば、以前にも何人か女性が尋ねてきたことがあったようだと他の仲間からも聞いているしな……)以前にも、リカルドを訪ねて何人か女性がこの屋敷を訪ねてきたことは聞いていた。とりあえず、屋敷の中に招いた後でリカルドの判断を仰ごうと決めた。「それでは確認してみますので、どうぞこちらへ」まさか、それだけで受け入れてくれるとは思ってもいなかったイレーネは嬉しさのあまりに笑みを浮かべた。「本当ですか? ありがとうございます」「いえ、ではどうぞこちらへ」「恐れ入ります」そしてイレーネはフットマンに案内されて屋敷の中へ招かれた。(すごい……内装もとても立派なお屋敷だわ。ここで働けたらどんなにかいいのに)フットマンの後ろを歩くイレーネは周囲を見渡した。本当は色々質問したいのだが、自分がこの屋敷へ来た理由をうっかりしゃべってしまいかねない。そこでおとなしく案内され、応接間に通された。「申し訳ございません。こちらで少々お待ちいただけますか?」「はい、待たせていただきます。お忙しいところ、案内していただき感謝いたします」ニコニコ笑いながらイレーネはフットマンに感謝の言葉を述べた。「いえ、それでは失礼いたします」フットマンもイレーネにつられ、丁寧に挨拶すると応接間を出た。―――パタン「一体、あの女性は誰だろう……? 感じも良かったし、何
「リカルド様!」フットマンは倉庫の扉を開けるも、そこにリカルドの姿はない。いるのは2人の若い男性使用人たちのみだった。「どうしたんだ?」「リカルド様ならいないぞ?」「ええ!? い、いない? どこへ行ったんだ!?」その言葉にフットマンは目を見開く。「うん、発注ミスがあった業者の元へ自分で行くと話していたな」「俺達が行きましょうかと声をかけたんだけど」「そ、そんな……」フットマンが壁に寄りかかったとき――「大変だ! 枯れ葉を集めて燃やしていたら、物置小屋に燃え移ってしまった! 人手が足りないから応援に来てくれ!」別のフットマンが倉庫に飛び込んできた。「「「何だって!!!」」」「大変だ!」「こうしてはいられない!」「早く行こう!!」こうして4人のフットマンたちは火を消す為に、大急ぎで物置小屋へ向かった。もちろん、その頃にはイレーネの存在が忘れられてしまったのは言うまでもなかった。**一方、その頃のイレーネは……。応接間に通されてから、既に2時間が経過していた。始めの頃は、応接間のインテリアを感心した様子で眺めていたイレーネだった。けれどそれにも飽きてしまい今は一人ソファにぽつんと座り、置き去り状態にされていた。「それにしても随分時間がかかるのね……やっぱり、突然押しかけてしまったからなのかしら……?」壁に掛けてある時計を見つめながら、イレーネはため息をついた。「……喉も乾いたし、お腹も空いてきたわ……こんなことならこのお屋敷に着く前に、どこかで軽く食事でもするべきだったかしら……」言葉にしてみたもののお金に余裕が無いイレーネに外食など、所詮贅沢でしか無かった。それよりも今は帰りの汽車の心配のほうが勝っていた。「どうしましょう……あまり遅くなっては帰りの汽車が無くなってしまうわ。かと言ってホテルに泊まれるはずも無いし……そうなったら図々しいお願いかもしれないけれど、このお屋敷に泊めていただくしか無いわね。頼み込めばきっと何とかなるでしょう」呑気なイレーネはそう割り切った途端、強烈な眠気に襲われた。「……何だか、眠くなってきたわ……遅くまで起きて服を仕立てていたから……」ウトウトしながら、必死で意識を保とうとしたものの……ついにイレーネは背もたれに寄りかかったまま、眠りについてしまった――****――午後4時半
リカルドは今、応接間の扉の前に立っていた。「まさか……本当に、この中で私を待っているのだろうか……?」ゴクリと息を呑み、リカルドは扉をノックした。――コンコン「……」少しの間、待ってみるが何も反応は無い。「やはり、いないのだろうか?」念の為にもう一度、今度は声をかけながらノックすることにした。――コンコン「失礼いたします」けれど、やはり反応は無い。「何だ、やはりもう帰っているのか」胸をなでおろしながら、リカルドは扉を開け……目を見開いた。「え!?」太陽が差し込む部屋の中に、ソファに座ったまま居眠りをしているイレーネの姿がリカルドの目に飛び込んできた。「こ、この方は……一体……?」リカルドは驚きながら、応接間の中に入った。居眠りをしているイレーネのブロンドの髪が太陽の光に照らされてキラキラと輝いている。その姿はまるで天使のように見えた。(まさか、本物の天使では無いよな……?)そこで恐る恐るイレーネに声をかけた。「あの……御令嬢?」それでもイレーネは目を覚まさない。「すみません、御令嬢」困ったリカルドは再度、イレーネに声をかける。すると――「ん……」長い睫毛を震わせ、イレーネがゆっくり目を開けた。目を覚ましたばかりの彼女は半分寝ぼけている。突然目の前に現れたリカルドに驚くこともなく、挨拶をした。「……あら……どうも、こんにちは……」「ええ、こんにちは。私をお待ちだったとフットマンから聞いたのですが……それは本当のことでしょうか?」そしてリカルドは笑みを浮かべる。「えっと……?」そこでイレーネはようやく頭がはっきりし、慌てて立ち上がると謝罪の言葉を口にした。「あ……! このお部屋の居心地があまりに良かったものですから、うたた寝をしてしまいました。大変申し訳ございません!」「いえ、それは私がお待たせしてしまったからですよね? それで……どのくらい、お待たせしてしまったでしょうか……?」リカルドは恐る恐る尋ねた。「そうですね……? 5時間程でしょうか……?」「ええ!! 5、5時間ですか!! そ、そんなにお待たせしてしまったのですか!?」あまりのことに、リカルドは身体がのけぞるほどに驚く。けれど、イレーネは気にもとめずに話しかけた。「あの、もしや……あなたがリカルド・エイデン様でしょうか?」「え、
「あの、どうかしましたか?」イレーネはリカルドに見つめられ、首を傾げた。「い、いえ。何でもありません。それでは遅くなりましたが、面接を行いましょうか? どうぞ、もう一度お掛け下さい」「はい、それでは失礼いたします」丁寧に返事をすると、イレーネは再びソファに腰掛けて背筋を伸ばす。その様子を見届けるとリカルドも向かい側のソファに腰掛けた。「それではまず紹介状を見せていただけますか?」「はい、どうぞ」イレーネはショルダーバッグから封筒に入った紹介状を取り出すと、テーブルの上に置いた。「それでは拝見いたします」開封すると、リカルドは紹介状にじっくり目を通し……顔を上げた。「なるほど、イレーネさんは男爵令嬢なのですね?」「はい、そうです。ですが……お恥ずかしいお話ではありますが、男爵とは名ばかりです」その言葉にリカルドは改めてイレーネを見つめる。(確かに着ているドレスも鞄もかなり流行遅れではあるな……あまりお金に余裕は無いのだろう)「それで、イレーネさんが今回、こちらの求人に応募したことは職業紹介所の人以外はご存知ないのですか?」「はい、もちろんです」「ご家族もですか?」するとイレーネは首を振った。「いいえ、家族はいません。唯一の肉親である祖父も半月ほど前に亡くなり、今は完全にひとりですので」「え? そうだったのですか? それは……大変御苦労されたのですね……でも、これはある意味好都合かも……」疲れていたリカルドは、うっかり本音を口にしてしまった。「え? 何かおっしゃいましたか?」「いえ、こちらのことです。では、今一人で暮らしていらっしゃるのですね?」「はい、そうです」「それで……これが一番重要な質問なのですが、募集要項にもありましたがイレーネさんには婚約者、もしくは結婚を約束したような方はいらっしゃいますか?」「いえ、そのような方はおりません」そこだけはしっかり強調するイレーネ。「なるほど……」リカルドは考えた。(口も固く、落ちぶれているとは言っても男爵令嬢。それにしっかり教育も受けているようで素養もありそうだ。あれだけ長い時間放置されていたにも関わらず苛立つこともない。何より、天涯孤独の身であるならば……)そしてチラリとイレーネを見つめ……口を開いた。「イレーネさん。実はこの求人は最近出したばかりなのですが、
「結婚ですか……? やはり伯爵家の当主になるには、そのような条件も必要になるのですね」頷くイレーネ。「ええ、そうなのです。マイスター伯爵家は商事会社も経営しております。そして、取引先の会社経営者も愛妻家の方々が非常に多いのです……」「それで尚更結婚していることがマイスター伯爵家の当主になるための必須条件ということになるわけなのですね?」「はい。そこで今回、このような秘密裏の求人を出すことにいたしました」リカルドは様子をうかがうようにイレーネを見る。ここで勘の良い者ならば、大抵は何を言いたいのか察するのだろうが、イレーネは違う。「そうなのですか……あの、ですがそれと今回の求人の件とどのような関係があるのでしょうか?」呑気で鈍いところがある彼女には未だに何のことかさっぱり分からずにキョトンとした顔をしている。「あ、あの……ここまで言って何かお気づきになりませんか?」驚いた様子でリカルドが尋ねる。「はい、申し訳ございませんが……何のことでしょう?」「え……?」(そ、そんな……まだこの求人の意図に気付いていないのか!? こうなったら、ストレートに言うしかない)そこでリカルドは正直に伝えることにした。「恐らくイレーネさんはメイドの求人だと思い、今回応募されたのでしょう?」「はい、その通りです」「募集要項に何かおかしな点があることに気づきませんでしたか?」「そうですね……24時間体制の勤務だということでしょうか? 基本夜の勤務は無いものの、場合によっては夜勤が入る場合もあるのですよね?」もう募集要項は頭にすっかり入っているので、スラスラと答えるイレーネ。「ええ、そこです。もうこうなったら正直に申し上げます。これはメイドの募集ではないのです。実は、この屋敷の主……ルシアン様の妻になっていただける方を捜していたのです」「そうなのですか。妻……ええ!? つ、妻ですか!?」これにはさすがのイレーネも驚いた。「驚くのも無理はないでしょう? けれど、妻と言っても正式な妻になって頂くというわけではありません。要はルシアン様がマイスター伯爵家の当主になるための……いわば仮初の妻。書類上だけの契約妻になっていただける方の募集だったのです」リカルドは声のトーンを押さえて説明する。「ですが、契約妻なんて……ルシアン様には婚約者や結婚を約束しているよう
「ですが、たとえ一年間だけとはいえイレーネさんには大変負担になることだとは思います。そこで、求人に記載されていた給金よりも上乗せしてお支払いいたします。無事に一年間妻を演じていただけた暁には契約満了時に退職金として三年間毎月30万ジュエルをお支払することを確約いたします。いかがでしょうか? 少し考えてみてはいただけないでしょうか?」リカルドは丁寧に説明した。それはイレーネなら自分が契約妻であることを明かさないだろうと踏んだからだ。何より契約期間満了後は後腐れなくルシアンと離婚してくれそうに思えた。(仮にルシアン様がイレーネさんを気に入り、離婚を望まなければそのまま結婚生活を続けることだって出来るだろう。後は彼女の反応だが……契約結婚なんて、果たして引き受けてくれるだろうか?)リカルドはイレーネの返事を待った。すると……。「まぁ! そんなにお金をいただけるのですか? とても切羽詰まっていたので本当に助かります。ありがとうございます、感謝の言葉しか見つかりません」大喜びでお礼の言葉を述べるイレーネを見て、逆にリカルドは戸惑った。「あ、あの……そんなにあっさり決めてもよろしいのですか? いくら書類上だけとはいえ……仮にも結婚するのですよ?」「ええ、一年間の契約結婚ですよね? 大丈夫、私には夫も婚約者も将来を約束したような相手もおりませんので、何の問題もありません」「ですが、離婚した暁にはイレーネさんの戸籍に離婚歴がついてしまいます。そうなりますと……将来本当に結婚する際に何かと不利な状況になるのは確実なのですよ? それに帝国法により、離婚後三年間は女性の場合再婚を認められません。それでも構わないのですか?」自分で契約結婚を勧めておきながら、あまりにもあっさり返事をするイレーネのことが気がかりになるリカルド。「ええ、良いのです。契約結婚後の離婚で、将来自分が本当の結婚をすることが出来なくなっても構いません。生涯をひとりで細々と生活できるだけのお金があれば十分ですので」自分のように貧しい没落貴族を、好き好んで嫁に迎えてくれる男性などいないだろう。イレーネにとっては、この件で戸籍に傷が付いても一向に構わなかったのだ。一方、焦ったのはリカルドの方だった。「何ですって? それではあまりにも申し訳が立ちません……あ、それならこういうのはどうでしょう?
「それではイレーネさん。ルシアン様との1年間の契約結婚の件、了承していただいたということでよろしいでしょうか?」イレーネに心変わりしてもらいたくないリカルドは念押しした。「ええ、勿論です! 是非ともお願いいたします!」「ルシアン様がどのような方でも……大丈夫でしょうか?」「はい、大丈夫です。元々本当の夫になる方では無いのですよね? 御主人様としてお仕えさせていただきます」ニコニコと返事をするイレーネ。「分かりました。では早速書類にサインをして頂けますか?」「分かりました」頷くイレーネの前に、リカルドは一通の書類をテーブルの上に置いた。「雇用契約書ですね? 拝見いたします」早速書類に手を伸ばすイレーネにリカルドは慌てる。「え? あ、その書類は……雇用契約書ではなく……」「まぁ……これは……婚姻届ですね?」イレーネはリカルドを見つめた。「はい、そうです……イレーネさんにはルシアン様と婚姻していただきますから。この婚姻届が雇用契約書だと考えて下さい」「そうなのですね」「あの……それで、サインする前にもう一度確認させていただきたいのですが……本当に、結婚してもよろしいのでしょうか?」無邪気なイレーネを見ていると罪悪感がこみ上げてくる。リカルドは目を伏せながら尋ねた。すると……「はい、サインしましたのでお願いします」うつむくリカルドの目に、イレーネの名前が記載された婚姻届が目に入った。「え……? ええ!? も、もうサインしてしまったのですか!?」「ええ。そうですが……何か問題でもありますか?」「問題と言うか……結婚というものは人生の一大イベントですよ? それを、この場であっさり承諾してしまわれるとは……」「ええ、こんなに素晴らしい求人を断るはずはありませんわ」「そ、そうですか……」(まさか、躊躇うこと無く婚姻届にサインしてしまうとは……)リカルドは信じられない思いでイレーネを見つめる。「それで、少しお伺いしたいことがあるのですが……よろしいでしょうか?」「ええ、私で答えられるものであれば何なりと」「あの……お仕事の延長ってありますか?」「はい?」一瞬、リカルドは何を問われているのか理解できなかった。しかし、目の前のイレーネはどこか恥ずかしそうに頬を少しだけ染めてリカルドを見ている。その様子に彼は焦った。(ま
面接が終わったのは午後6時を過ぎていた。「私のせいで、このようなお時間までお待たせしてしまい申し訳ございませんでした」イレーネのサインが書かれた婚姻届を封筒にしまうリカルド。「いえ、私が何も連絡も無しに伺ったのですから大丈夫です」散々待たされたことを気にする素振りもなく、イレーネは笑顔を見せる。「ですが、それも募集要項に私以外の誰にも求人の件で来訪した旨を説明しないようにと記してあったからですよね……」リカルドは申し訳なくて仕方がなかった。散々待たせてしまった挙げ句に、今度はこちらの勝手な都合で契約結婚をさせてしまうのだから。「この度はイレーネさんに多大なる負担ばかりかけてしまいました。お詫びと言ってはなんですが、何か今お困りのことがあるようでしたら何なりとお申し付け下さい。私に出来る精一杯のお礼を致しますので」「え……? それは本当……ですか?」その言葉にイレーネは目を見開く。実は先程からイレーネはずっと困っていたのだ。けれど、なかなか言い出せずにいた。何故ならそれは……ぐぅううう〜……突如、静かな部屋にお腹の鳴る音が響く。「え……?」リカルドはその音に驚き、イレーネを見つめる。(ま、まさか……?)イレーネの顔は羞恥心の為か、真っ赤になっている。そしてリカルドの視線に気づき、言いにくそうに言葉を紡いだ。「す、すみません……お腹が……空いてしまって……お恥ずかしいです……」そして俯く。イレーネは今までずっと空腹に耐えていたのだ。途中、リカルドにお茶は淹れてもらったので喉の乾きは無かったが、空腹だけはどうしようもない。何しろ、汽車の中で食事をして以来何も口にしていなかったのだから。「あ……! こ、これは気付かずに大変申し訳ございませんでした! そうですよね……。今までずっと私が来るのを何時間もこの部屋でお待たせしてしまったのですから……お待ち下さい! 厨房に行って、今すぐ口に出来る食事を用意するように伝えてまいりますので!」「あ、あの。そんなに慌てなくても私なら大丈夫ですよ……?」リカルドのあまりの慌てようにイレーネは声をかける。「いいえ、そうはまいりません。どうぞこちらのお部屋でお待ち下さい。15分……いえ、10分以内に必ず戻ってまいりますので!」「え? あ……はい、分かりました」「それではできるだけ早く戻ってま
「イレーネ……一体どういうことなのだ? 俺よりもブリジット嬢を優先して応接室で話をしているなんて……」ルシアンはペンを握りしめながら、書類を眺めている。勿論、眺めているだけで内容など少しも頭に入ってはいないのだが。「落ち着いて下さい。ブリジット様に嫉妬している気持ちは分かりますが……」リカルドの言葉にルシアンは抗議する。「誰が嫉妬だ? 俺は嫉妬なんかしていない。イレーネが、いやな目に遭わされていないか気になるだけだ。ブリジット嬢は……その、気が強いからな……」「イレーネ様がブリジット様如きにひるまれると思ってらっしゃいますか?」「確かにイレーネは何事にも動じない、強靭な精神力を持っているな……」リカルドの言葉に同意するルシアン。「イレーネ様は良く言えばおおらか、悪く言えば図太い神経をお持ちの方です。その様なお方がブリジット様に負けるはずなどありません」メイド長が胸を張って言い切る。「た、確かにそうだな……」この3人、イレーネとブリジットに少々失礼な物言いをしていることに気づいてはいない。「だいたい、ブリジット様の対応を出来るのはこのお屋敷ではイレーネ様しかいらっしゃらないと思いますよ?」「ええ、私もそう思います、ルシアン様。本当にイレーネ様は頼りになるお方です」メイド長は笑顔で答える。「確かにそうだな……。だが、一体2人でどんな話をしていたのだろう……?」首をひねるルシアンにメイド長が忠告する。「リカルド様、女性同士の会話にあれこれ首を突っ込まれないほうがよろしいかと思います。そして自分の話をするのではなく、女性の話を先に聞いて差し上げるのです。聞き上手な男性は、とにかく女性に好かれます」「え? そうなのか?」「はい、そうです。詮索好きな男性は女性から好ましく思われません。はっきり言って好感度が下がってしまいます。逆に自分の話を良く聞いてくれる男性に女性は惹かれるのです」「わ、分かった……女性同士の会話には首を突っ込まないようにしよう。好感度を下げるわけにはいかないからな。そして女性の話を良く聞くのだな? 心得た」真面目なルシアンはメイド長の言葉をそのまんま真に受ける。イレーネとの関係が契約で結ばれているので、好感度など関係ないことをすっかり忘れているのであった。「では、私はこの辺で失礼致します。まだ仕事が残っておりま
イレーネとブリジットは2人でお茶を飲みながら応接室で話をしていた。「それにしても絵葉書を貰った時には驚いたわ。まさかルシアン様のお祖父様が暮らしているお城に滞在していたなんて」「驚かせて申し訳ございません。ですが、お友達になって下さいとお願いしておきながら自分の今居る滞在先をお伝えしておかないのは失礼かと思いましたので」ニコニコしながら答えるイレーネ。「ま、まぁそこまで丁寧に挨拶されるとは思わなかったわ。あなたって意外と礼儀正しいのね。それで? 『ヴァルト』は楽しかったのかしら?」「ええ、とても楽しかったです。とても自然が美しい場所ですし、情緒ある町並みも素敵でした。おしゃれな喫茶店も多く、是非ブリジット様とご一緒してみたいと思いました」「あら? 私のことを思い出してくれたのね?」ブリジットはまんざらでもなさそうに笑みを浮かべる。「ええ、勿論です。何しろブリジット様は素敵な洋品店に連れて行っていただいた恩人ですから」「そ、そうかしら? あなったて中々人を見る目があるわね。今日ここへ来たのは他でもないわ。実は偶然にもオペラのチケットが3枚手に入ったのよ。開催日は3か月後なのだけど、世界的に有名な歌姫が出演しているのよ。彼女の登場するオペラは大人気で半年先までチケットが手に入らないと言われているくらいなの」ブリジットがテーブルの上にチケットを置いた。「まぁ! オペラですか!? 凄いですわね! チケット拝見させていただいてもよろしいですか?」片田舎育ち、ましてや貧しい暮らしをしていたイレーネは当然オペラなど鑑賞したことはない。「ええ、いいわよ」「では失礼いたします」イレーネはチケットを手に取り、まじまじと見つめる。「『令嬢ヴィオレッタと侯爵の秘密』というオペラですか……何だか題名だけでもドキドキしてきますね」「ええ。恋愛要素がたっぷりのオペラなのよ。女性たちに大人気な小説をオペラにしたのだから、滅多なことでは手に入れられない貴重なチケットなの。これも私の家が名家だから手に入ったようなものよ」自慢気に語るブリジット。「流石は名門の御令嬢ですね」イレーネは心底感心する。「ええ、それでなのだけど……イレーネさん、一緒にこのオペラに行かない? 友人のアメリアと3人で。そのために、今日はここへ伺ったのよ」「え? 本当ですか!? ありが
「一体どういうことなのだ? ブリジット嬢には手紙を出しているのに、俺に手紙をよこさないとは……」「ああ、イレーネさん。イレーネさんにとっては、私たちよりも友情の方が大切なのでしょうか? この私がこんなにも心配しておりますのに……」ルシアンとリカルドは互いにブツブツ呟きあっている。「あ、あの〜……それでブリジット様はいかが致しましょうか? イレーネ様は今どうなっているのだと尋ねられて、強引に上がり込んでしまっているのですけど……やむを得ず、今応接室でお待ちいただいております」オロオロしながらフットマンが状況を告げる。「何ですって! 屋敷にあげてしまったのですか!?」「何故彼女をあげてしまうんだ!!」リカルドとルシアンの両方から責められるフットマン。「そ、そんなこと仰られても、私の一存でブリジット様を追い返せるはず無いではありませんか! あの方は由緒正しい伯爵家の御令嬢なのですよ!?」半分涙目になり、弁明に走るフットマン。「むぅ……言われてみれば当然だな……よし、こうなったら仕方がない。リカルド、お前がブリジット嬢の対応にあたれ」「ええ!? 何故私が!? いやですよ!」首をブンブン振るリカルド。「即答するな! 少しくらい躊躇したらどうなのだ!?」「勘弁してくださいよ。私だってブリジット様が苦手なのですよ!?」「とにかく、我々ではブリジット様は手に負えません。メイドたちも困り果てております。ルシアン様かリカルド様を出すように言っておられるのですよ!」言い合う2人に、オロオロするフットマン。「「う……」」ブリジットに名指しされたと聞かされ、ルシアンとリカルドは同時に呻く。「リカルド……」ルシアンは恨めしそうな目でリカルドを見る。「仕方ありませんね……分かりました。私が対応を……」リカルドが言いかけたとき――「ルシアン様! ご報告があります!!」突然、メイド長が開け放たれた書斎に慌てた様子で飛び込んできた。「今度は何だ? 揉め事なら、もう勘弁してくれ。ただでさえ頭を悩ませているのに」頭を抱えながらメイド長に尋ねるルシアン。「いいえ、揉め事なのではありません。お喜び下さい! イレーネ様がお戻りになられたのですよ!」「何だって! イレーネが!?」ルシアンが席を立つ。「本当ですか!?」リカルドの顔には笑みが浮かぶ。「
ゲオルグがマイスター伯爵に怒鳴られ、逃げるように城を去っていった翌日――イレーネは馬車の前に立っていた。「……本当にもう帰ってしまうのか? 寂しくなるのぉ……」外までイレーネを見送りに出ていた伯爵が残念そうにしている。「そう仰っていただけるなんて嬉しいです。けれど、お城の見学も十分させていただきましたし何よりルシアン様が待っているでしょうから。恐らく今頃私のことを心配していると思うのです」(きっとルシアン様は私が伯爵様と良い関係を築けているか心配しているはず。ゲオルグ様と伯爵様の会話の内容も報告しないと)イレーネは使命感に燃えていた。しかし、内情を知らないマイスター伯爵は彼女の本当の胸の内を知らない。「なるほど、そうか。2人の関係は良好ということの証だな。ルシアンもきっと、今頃イレーネ嬢の不在で寂しく思っているに違いない。なら、早く顔を見せてあげることだな」「はい。早くルシアン様の元に戻って、安心させてあげたいのです」勿論、これはイレーネの本心。何しろ、ルシアンを次期当主にさせる為の契約を結んでいるのだから。「何と! そこまで2人は思い合っていたのか……これは引き止めて悪いことをしたかな? だが、この様子なら安心だ。ルシアンもようやく目が覚めたのだろう。どうかこれからもルシアンのことをよろしく頼む」伯爵は笑顔でイレーネの肩をポンポンと叩く。「ええ、お任せ下さい。伯爵様。自分の役割は心得ておりますので。それではそろそろ失礼いたしますね」イレーネは丁寧に挨拶すると、伯爵に見送られて城を後にした――****一方その頃「デリア」では――「……またか……」手紙の束を前に、ルシアンがため息をつく。「また、イレーネさんからのお手紙を探しておられたのですか? ルシアン様」紅茶を淹れていたリカルドが声をかける。「い、いや! 違うぞ! と、取引先の会社からの報告書を探していたところだ!」バサバサと手紙の束を片付けるルシアン。その様子を見たリカルドが肩をすくめる。「全くルシアン様は素直になれない方ですね。正直にイレーネさんの手紙を待っていると仰っしゃればよいではありませんか? ……本当に、何故伯爵様はイレーネさんのことを教えてくださらないのでしょう……」その言葉にルシアンは反応する。「リカルド、お前まさかまた……祖父に電話を入れたのか?
書斎ではマイスター家の現当主、ジェームズ伯爵の声が響き渡っていた。「何!? 何故ゲオルグとイレーネ嬢が一緒にやってきたのだ!?」イレーネがゲオルグと共に現れたことで伯爵の驚きは隠せない。「ええ、お祖父様に会う前に『クライン』城に行っていたのですよ」肩をすくめて答えるゲオルグ。『クライン』城とは、先程イレーネとゲオルグが出会った城のことだ。「そうだったのか? だが何故、すぐにこの城に来なかったのだ? お前の為に今日は予定を空けていたのだぞ?」どこか非難めいた眼差しを送る伯爵。「申し訳ございません。実は今、新しい事業計画を立てておりまして自分の好きなあの城で構想を練っていたのですよ。お祖父様に提案するためにね」「また、くだらない事業計画では無いだろうな?」「ええ勿論です。今度こそお祖父様のお気に召すこと間違いないです」得意げにスーツのポケットから封筒を取り出すゲオルグ。一方のイレーネは先程から2人のやり取りを黙って見ていた。(お二人の話なのに、私この場にいて良いのかしら? それにしても意外だったわ。ゲオルグ様は伯爵の前では『お祖父様』と言うのね。私の前では『爺さん』と言っていたのに……)「分かった、ならその計画書とやらを出せ。一応見てやろうじゃないか」「ええ、是非御覧下さい。今度こそお祖父様の納得のいく事業だと思いますよ。確か跡継ぎになる条件には、『仕事で成功を収めた者』も含まれていましたよね?」ゲオルグはチラリとイレーネを見る。「ああ、確かにそう言ったな。跡継ぎ候補は平等に扱わなければならないから……ん? な、何だ……この事業計画書は……」伯爵の肩がブルブル震え始めた。「ええ、どうです? 素晴らしい計画書でしょう? これでマイスター伯爵家も、益々発展していくに間違いないですよ」自慢気に胸をそらすゲオルグ。しかし、得意になっている彼は気づいていない。伯爵が震えているのは怒りのためによるものだということを。「あの、伯爵様。どうされましたか?」異変に気づいたイレーネが声をかけると、伯爵は顔を上げた。「ゲオルグ……お前、この事業計画……本気で言っているのか?」怒りを抑えながら尋ねる伯爵。「ええ、勿論です。本気も本気ですよ。何しろ、次期当主の座がかかっているのですからね」すると……。「ふ……ふざけるなーっ!!」伯爵が大声
「婚約者には、包み隠さず何でも打ち明けるのが筋じゃないか? 俺だったらそうするね。それが相手に対する誠意ってものだと思わないか?」身を乗り出すようにイレーネに語るゲオルグ。「そういうものなのでしょうか?」首を傾げ、反応が鈍いイレーネにゲオルグは益々不信感を抱く。(何だって言うんだ? そんなにこの話に興味を持てないのか? やはり、2人の婚約の話は嘘なんじゃないだろうか?)一方のイレーネはゲオルグの話を冷静に考えていた。(そう言えば、リカルド様に少し聞いたことがあるわ。確かゲオルグ様は何度もお相手の女性を取っ替え引っ替えしているって。それはやはり、過去の女性遍歴を交際相手に話してきたからじゃないかしら。きっとそうね、間違いないわ)「まぁいい。誰だって自分の婚約者が過去にどんな相手と交際していたか気になるだろうからな……ルシアンが話していないなら、俺が代わりに教えてやろう。どうだ? 知りたいだろう?」「いいえ? 別に知りたくはありませんけど?」「やっぱりな、そうくると思ったよ。誰だって知りた……ええっ!? い、今何と言ったんだ!」「はい、別に知りたくはありませんと申し上げました」何しろ、イレーネは1年間という期間限定でルシアンの妻になる雇用契約を結んだだけの関係。そこには一切の恋愛感情など存在しないのだから。「クックックッ……そうか……やはり俺の思ったとおりだったな……」もはや心の内を隠すこともなく、不敵に笑うゲオルグ。「つまりだ、イレーネ嬢。君はルシアンに頼まれて婚約したのだろう!? 何しろ爺さんが提案した次期当主になる条件は結婚なのだからな! どうだ? 違うか?」「はい、違います」「な、何!? 違うのか!」思わず椅子からずり落ちそうになるゲオルグ。そういうところはルシアンと似ている。「ええ、違います。ルシアン様に頼まれてはいません」最初に頼んできたのはリカルド。イレーネは決して嘘などついてはいない。「そうか、違うのか……では俺の見込み違いだったというわけか……? だとしたら何故ルシアンが以前交際していた女性のことを知りたくないのだ?」「ルシアン様に関するお話は、本人から直接聞きたいからです。私に話していないということは、話す必要が無いからなのではないでしょうか? それなのに無理に知りたいとは思いませんから」(私はお給料を頂
「どうぞ、イレーネ嬢」ゲオルグは自分が手配した馬車の扉を開けた。「ありがとうごいます」早速イレーネは馬車に乗り込むと、ゲオルグも後に続く。扉を閉めるとすぐに馬車は音を立てて走り始めた。「どうだい? イレーネ嬢。この馬車の乗り心地は?」何故か自慢気に尋ねてくるゲオルグ。「そうですね。座面も背もたれも丁度良い具合ですね」あまり馬車にこだわりがないイレーネは当たり障りの無い返事をする。「やっぱり分かるか? この馬車は俺が自ら考案したんだ。特にこだわったのが椅子だ。絶妙な座り心地だろう? 実は馬車の内装も今後の俺の商売に取り入れようかと考えている最中なのさ」「ゲオルグ様自ら考案とは素晴らしいですね。日々、仕事のことを考えていらっしゃるなんて。流石はルシアン様と血が繋がっているだけのことはあります」すると何故か突然ゲオルグの顔が曇った。「……やめてくれないか? あいつを引き合いに出すのは」「え? 駄目なのですか?」「ああ。あいつは昔から何かにつけ生真面目で、どこか俺を見下しているようなところがあったからな。確かにあいつの方がいい大学は卒業しているが……」ブツブツ文句を言い始めるゲオルグ。一方のイレーネは話を半分にしか聞いていなかった。何故かと言うと、馬車の中の暖かさと揺れで眠くなってきたからだ。(眠い……眠いわ……。今にも意識が……)必死で眠気をこらえるも、本能には抗えない。ついに……。「ふわぁぁあ……」我慢できずに、イレーネは大きな欠伸をしてしまった。勿論、一応淑女? らしく口元は手で隠したのだが。しかし当然のように正面に座るゲオルグに見られてしまった。「何だ? 眠くなったのか?」「あ、お話中だったのに、失礼な真似をしてしまい、申し訳ございません」すぐにイレーネは謝る。てっきり不機嫌になるのではないかとイレーネは思ったが、ゲオルグの反応は予想外のものだった。「何、別に気にすることはないさ。誰だって眠くなることがあるのだから」「確かに仰るとおりですね。つい馬車の乗り心地が良かったもので眠気が来てしまったようです」「お? 君は中々気の利いたことを言ってくれるじゃないか? 気に入ったよ。以前ルシアンが付き合っていた女性とは全く真逆のタイプだ。……おっと、婚約者の前でこれは余計な話だったかな。気に障ったなら許してくれ」ゲオル
イレーネとゲオルグは2人でガゼボの中で会話をしていた。「イレーネ。君は本当に、あのルシアンと婚約しているのか?」真剣に尋ねるゲオルグ。「はい、そうです。私のことを当主様に認めていただくために1週間前から城に滞在しております」(ゲオルグ様はルシアン様のいとこにあたる方。失礼な態度をとってはいけないわね)丁寧にゲオルグの問に答えるイレーネ。「認めていただくって……1週間も滞在しているってことは爺さんに気に入られているようなものじゃないか……」ため息をつきながら、前髪をかきあげるゲオルグ。「そうなのでしょうか? 本当にそう思われますか?」ゲオルグの言葉に嬉しくなったイレーネは笑みを浮かべる。「……それを俺に尋ねるのか? 全く君って人は……俺とルシアンの話は聞いているんだろう? 」「はい、うかがっております。後継者問題が起きているのですよね?」「そうだ、ルシアンは爺さんのお気に入りだからな。何と言っても取り入るのがうまい。結局祖父の心配事はルシアンが未だに身を固めないってことだ。だから俺を引き合いに出して、先に結婚した相手に当主の座を譲ると決めたのさ」肩をすくめて投げやりに話すゲオルグ。「そうなのですね」イレーネは使用人が淹れてくれた紅茶を飲みながら、適度に頷く。「だが、それでも俺にもチャンスはあるってことだろう。だから今、仕事を頑張っているんだ。それに新しい事業計画だって立てている。今日だって爺さんに呼ばれたからチャンスだと思ってここへ来たっていうのに……」そして再びゲオルグはため息をつくと、イレーネを見つめる。「? あの……何か?」キョトンと首を傾げるイレーネ。「今、分かったよ。爺さんが何故俺をここへ呼んだのか……つまり、ルシアンの婚約者になった君を俺に引き合わせるためだったのか。全く……イヤになるぜ」「はぁ……」適当に相槌を打つイレーネ。(いつまでこのお話は続くのかしら……歩いて帰るからそろそろ帰りたいのだけど)「君、俺の話を聞いているのか?」「はい、聞いておりますわ。お仕事を頑張って事業計画も立てていらっしゃるのですよね?」「ああ、そうだ。今日はこれからこの事業計画書を持って爺さんのところを訪ねるつもりなんだ」得意げに背広のポケットを叩くゲオルグ。この話を聞いてイレーネはゲオルグから開放されるチャンスだと思
振り向いたイレーネは声をかけてきた青年をじっくり見た……のには訳があった。(あら? この方、いつの間に現れたのかしら? それに何処かで見たような顔だわ)「聞いているのか? 返事くらいしたらどうなんだ?」青年はイレーネに近付き……近くまで来ると、足を止めた。「へぇ〜……これは驚いた。随分若くて綺麗な女性じゃないか。一体ここへ何をしに来たんだい? 良い身なりをしているわりに、供をつけてもいないようだし……。もしよければ君の名前を教えてもらえないか?」イレーネが若く美しい女性だということに気づいた青年は笑みを浮かべる。「……」一方のイレーネはじっと青年を見つめている。どこかで見たことのある顔のような気がしてならずに、記憶の糸を辿っていたのである。(やっぱり、何処かで見たことのある顔だわ……? いつ、何処で見たのかしら……?)返事もせずに、自分をじっとみつめるイレーネに青年は首を傾げる。「どうしたんだ? お嬢さん」そこでようやくイレーネは口を開いた。しかも、思いきり勘違いさせるような口ぶりで。「あの、私達……どこかでお会いしたことありませんか?」「え……?」青年は戸惑いの表情を浮かべ……次の瞬間、満面の笑みを浮かべる。「これは驚いたな! まさか君のように美しい女性から口説かれるとは!」「え? 口説く?」イレーネは自分の発した言葉が、まさか青年にとっての口説き文句になるとは思わなかった。しかし、今の言葉で青年が上機嫌になったのは言うまでもない。「生憎、会うのは初めてだよ。君のような美人、一度会ったら忘れるはずはないからね。……そうだ、まずは自己紹介しよう。俺の名前はゲオルグ・マイスター。この城はマイスター伯爵家が所有する城の一つで、いずれは俺が当主の座を引き継ぐ予定になっているのさ。今日は当主に呼ばれていて、これから会いに行くのだが、その前に自分が好きな場所を訪れていたんだよ」青年……ゲオルグはイレーネが何者か知らないので得意げに語る。一方のイレーネは青年の話を聞きながら、目まぐるしく頭を働かせていた。(ゲオルグ……。そうだわ、何処かで見たことがある顔だと思ったら、ルシアン様によく似ていたのだわ。つまり、この方と次期当主の座を競い合っているというわけね。私がルシアン様と関係があることが知られたらどうなるのかしら?)しかし、イレー